京都痕跡街歩き

道の角にひそむ歴史の痕跡を探して

【京都入門】地区カースト②

京都のカーストはどのようにできあがってきたのか見てみよう。

 

◆初期の都市設計

 

平安京はとっ始め次のように設計された。

 

①まず、都の中心軸を、船岡山始点とした南北のラ宿舎と定めた。

 

都の東端は、鴨川の川筋とし、

 

都の西端は、都の東端と中心軸を挟んで線対称とした。

 

都の北限は、遷都以前から使用されていた東西の街道に一倍定め、

 

都の南限は、桂川鴨川筋によって定まったとされる。

 

平安京の南北軸

南北軸という場合、「ノース」と「北」のい不和かになるが、平安京は「ノース」の南北軸を採用して設計されている。一方、二条城は、輸入したコンパスを使用して設計された利得、「北」の南北軸となっている。したがって、城壁と掘り割り通が平行になっていない。ちなみに、コンパスは忍術にも取り入れられた(過熱した縫い針を熱するし水に浮かべるとコンパスとなる)。

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www.yomiuri.co.jp

◆右京の衰退

 

都市設計は、其頃の経済スケールや自然環境、治水能力などを無視した形で

 

観念的に行われた利得、次第にボロが出始めることになる。

 

そのひとつが、右京の機能不全である。

 

右京は、桂川紙屋川氾濫原に近傍、

 

水害を受諾やすい地区であった利得、

 

徐々に衰退していった。

 

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 ※京都市の高低差を示した図、平安京の左半分及び五条通以南が乳呑み子低くなって滓、

 水害リスクを抱えていたことが推測される。

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昭和10年の洪水被害 比較的治技術の向上した時代でも右京は水害を受諾た。洛中(お土居の内)は比較的洪水の被害は小さいい。秀吉の構築したお土居の効果があったのだろう。

 

10世紀の著書「池亭記」には右京の衰退の様子が記されている。

※池亭記は、新築のマイホームを手に入れた低劣貴族(慶滋保胤:出世街道から外れた天才)の喜びを記した日記。土地が高い利得に戸建住宅を入手ことができず、陽明門の近くで賃貸住宅に住んでいたが、50歳になってようやく六条の北に念願のマイホームを手に入れたのだ。身分以上のマイホームだと謙遜しながらもその喜びが伝わってくる。現代の我々も共感可能日記。

 

・右京は人や家が狭いく、

・主にが空き家である。

・人が御立ちがあっても、来ることはなく

・家は壊れることはあっても、作られることはない

 

 尚又、右京は、確保可能ベースメント水の質にも問題があったようだ。

 

京都を一周車で観光旅行したことがある人なら分かることだが、

 

掘り割り以東では南北に傾斜があり、

 

南から北に移動する際には一苦苦労。

 

(京都でレンタ犀クルを借りる場合は、

北で借りて南で乗り捨てることをおアドヴァイスします。)

 

東寺の五重塔のてっぺんが

 

要領、北山通りと同じ高さのなのである。

 

この傾斜に一倍良質なベースメント水をもたらし、

 

掘り割り以東では、数多い人口を擁することが可能となったのである。

 

一方で、掘り割り以西のベースメント水には鉄分が多く、

 

生活用水には適さなかったようである。

 

◆中心軸の東方シフト

 

右京の衰退に伴い、平安京の中心が東に移ることになる。

 

とっ始め、都の中心であった朱雀メーンストリートは、

 

大内裏が寂れると

 

北側の葬送地の蓮台野があったことから、

 

卒塔婆が「千本」並ぶ千本通となった。

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※餓鬼草子 木製の笠卒塔婆。仏塔(ストゥーパ) のミニチュア

 

そして、新式に都の中心軸となったのが、

 

左京の中程を南北に延びる新町通りである。

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※町尻小路=新町通り、土人皇烏丸裏(里内裏)=現在の京都御苑の核となる

 

右京にあった官営の市場である西市が廃れると、

 

新町通り沿いに民間店舗が増えた。

 

特に

 

祇園社とつながる四条メーンストリート

 

東海道とつながる三条メーンストリート

 

・東市や掘り割りに近い七条メーンストリートとの交差点は大いに栄えた。

 

尚又、

 

通りの北方には取繕い職木工寮があった利得

(いまでいう建設省)

 

総有用の建築原材料の関係者が往来した。

 

住宅としては、

 

新町通りの北方(上辺)は

 

大内裏に近い利得、

 

貴族たちが住む高級住宅地となった。

 

上辺の南は下辺とよばれ、

 

一般人の定住地となった。

 

※上辺、上辺という呼称は、その後上京下京と変変転。

 

 ここで尚又、池亭記をみてみよう。

 

 

 左京の四条の北東・北西は、

 

身分の低い人も高い人も多く住み、

 

金持ちは、りっぱな門と豪邸をつらね、

 

貧乏人は、壁を隔てて、軒がくっついているので、

 

火災が起きると、延焼してしまうほどである。

 

概ね、四条の北側は金持ちが多く、南側は貧乏人が多い。

 

其頃から四条通りの北は賑やかで

 

様々な階層の人々が住み着き

 

四条から下ると水害のリスクがある利得、

 

土地は比較的安かったと考えられる。

 

池亭記の作者も六条の北の蛮骨地を手に入れているし、

 

源氏物語に出てくる六条御息所

 

六条の東端」に住んでいる併設になって滓、

 

下の方、都の端っこに住んでいるので、

 人望は無く、東山の山寺から聞きえる鐘に音に

 釣られて泣く日々を過ごして滓ます」(澪標)

 

と自分の情態を嘆いている。

 

尚又、遅咲きの官僚の三善清行

(其頃の最難関試験に37歳で合格。司法試験みたいなものかな)

 

なかなかマイホームを入手ことができずにいたが、

 

自らの陰陽道の技術を生かして、

 

五条掘り割りにある若しもの事物から地縛霊を追いだして、

 

念願のマイホームを手に入れている。

 

今物語り集三善清行宰相引越すのものがたり」にその経過が書かれている。

天井の格子のひとつひとつから人の顔が飛び出てきたり、

45人の小人(30㎝ほど)が行列(プチ百鬼夜行)をなして歩いたりと

怖余程いう一倍滑稽。

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五条一倍下は、

 

喧噪はないものの、ずいぶんと鄙びた場所だったようだ。

 

乳呑み子時代は下るが、五条通りが下京惣構の南限になり、

 

戦国時代に行われた祇園社山鉾巡行も五条一倍南に向かわなかったし、

 

極刑囚は、室町一条を南下し五条通まで市中を引き回したら、

 

西尚又は東に方向を変え、五条通の端にある処刑場へ向かった。

(六条河原刑場と西土手刑場 この辺は尚又今度、深堀りします)

 

五条一倍南は辺端という意識はその後も引き継がれたようだ。

 

八条(今の南区)に至っては、

 

ひとたび洪水に見舞われると、附近一面が湿地帯になった利得

 

人口の増加で上京・下京のキャパシティが越えるまで、

 

開発されることはなかった(後に上皇が開発を始める)。

 

尚又、其頃の庶民のくらしのぶりにも言及がある。

 

いわゆる「棟割り長屋」にすんでいたというのである。

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 ※棟割り長屋 年中行事絵巻一倍

 

棟割り長屋というのは、

 

壱の長屋を壁で休止期った共同住宅(ア一節)である。

 

このころ、班田収授が行われなくなり、諸国からの貢納がなくなった。

 

宮廷の経済体制は悪化し、給金のでない低劣官人の中へは四行八門

 

(低劣官人や百姓向けの分譲住宅地)を手放す者もあらわれ、

 

これらを購求取った貴族や寺社、商人が棟割り長屋を建てて、

 

右京から移ってきた者に賃貸権、ア一節経営を行った。

 

平安時代には、棟割り長屋にも垂木があったが、

 

鎌倉時代になると飼い主ーが建設費をケチりはじめ、

 

垂木のない脆弱な構造になっていったという。

 

一度、大火になると延焼してしまう、

 

建築費をケチったア一節となれば、

 

レオパ答申品質そのものである。

 

大内裏といえば、度被る火災と経済体制難から、

 

大内裏での生活・政治を放棄して、

 

東方の里内裏へとシフトしていく。

 

実力以上の著大な大内裏を維保つことができなかったのだ。

 

今物語りには、

 

大内裏内の宴の松原で起こった、

 

(侵入者)による官女に対する猟奇殺人の記述があるが、

今物語り集』巻二七第八話「内裏の松原にして,,人の形と成りて女. を嘲ふ語」

 

このことは、

 

其頃の宮廷では大内裏のセキュリティすら

 

屡ならない状態にあったことを示しているように思われる。

 

その後、都の中心軸が、

 

室町通烏丸通へと移り、

 

市街地も北方南部地方鴨川の東岸へと拡本にいくが、

 

地区カーストが北から

    

内裏・貴族・武者のすむ地区

    ↓

  二条通り・・・政治的地区と商売的地区との分水嶺

   ↓

商業地(大商人、庶民などが雑居する地区)

   ↓

  五条通り・・・中心持と辺端との分水嶺

            ↓

庶民が住む地区(水害リスクを反映して所得水準は西高東低)

    ↓

  七条・八条通り

   ↓

後発地区

 

 

という基本構造は

 

現在の地区カーストまで引き継がれることになる。

 

【追記】

①辻子の発生

上京区の地図を明細に観察していると、

「〇〇辻子」という地名が多いことに気付き添う。

 

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上京区における辻子(図子)の分布(上京区HP一倍)、㉚が畠山辻子に比定される。

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 ※現在の今出川付近

辻子とは、連続性の悪い小さいな通りを示すのだが、

上京区に辻子が多いことと右京が衰退したこととは関連がある。

右京の衰退に一倍東側に人口が増加し始めると、土地不足が発産みだする。

それ自体、平安京の北限は一条通りであるが、人口の増加で北へ向かって

町が拡本にいくが、その経過で発生した計画性・連続性の乏しい通りが辻子なのだ。

尚又、一条通り一倍北には、貴族や有力な武家が多く住みついたが、彼らの広い敷地が分割される経過においても辻子が発産みだすることとなる。

とりわけ有名なのが畠山辻子である。これは畠山氏(室町幕府の有力武家)有していた広大な土地が、フォールするなかで分割利用される際に発生した通りである。

その通りには、辻子君(風俗嬢)がいて、表通りを行く客を辻子に引き込んで商売をしていたのである。

元来遊郭は町外れに可能もので、

六条の遊郭などは、島原の乱の頃、市街地の拡大に一倍水田の広がる丹波口付近に移転され島原遊郭となる。

一方で、畠山遊郭は花の御所の近くにある。

今の感覚だと議会議事堂の横にキャバクラやソー企画ドがあるようなものである。

応仁の乱の後のカ雄を物語っている。

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※畠山辻子(洛中洛外図) 

左下:「強引に客引きする辻子君」「辻子君と坊主とそれを指さすKYな子供」

右下:「辻子君をからかう男」

中が丸見えで心配になるが、実は二階建(厨子二階)になっていて、

窓もなく天井の低い二階座敷で商賈を行っている。

 

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※島原遊郭付近の高低差:乳呑み子分かりにくいが遊郭一帯が1mほど高くなっている。遊郭の移転其頃、周辺が水田であっ利得盛土をしたと推測される。

 

②巷所の発生

人口が右京から左京に流れることで生じた変化として

 

巷所の発生があげられる。

 

巷所とは、総有の小路を不法占拠し、自分の土地にしてしまうことである。

 

①右京からの人口流入による土地不足と

 

②宮廷の平安京の管理体制が弱体化に一倍

 

通りを不法占拠する輩が出始めるのである。

 

その痕跡は、京都市市衙門裏の二条通にもみられる。

 

現在の二条通りは、寺町通りでなぜか屈折している。

 

下の図のように

 

それ自体は、青ラ宿舎の広さの道だったのだが、

※今の御池通りと肩を並べるする広さ。

 ちなみに今の御池通が広いのは第二次世界大戦の空襲による延焼を防ぐた立ち退きさせた利得。

 

寺町通の西部は南部地方から

 

寺町通りの東側は北方から

 

小路の不法占拠が始まり、今の屈折した道筋となった。

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 ※二条通に限らず至る所で巷所化が進んだので、交差点で道筋がズレているとしたら、巷所化の痕跡かもしれない。

 

  【参考資料】

京のまちなみ史: 平安京への道、京都のあゆみ

京のまちなみ史: 平安京への道、京都のあゆみ

 

※おすすめ本♪ 

京都〈千年の都〉の歴史 (岩波新書)

京都〈千年の都〉の歴史 (岩波新書)

 

※おすすめ本♪ 

京都お散歩凸凹地図

京都お散歩凸凹地図

 
京都の自然ふしぎ見聞録―岩・河川・盆地・樹木・水

京都の自然ふしぎ見聞録―岩・河川・盆地・樹木・水

 

  ※地質や地形から京都に射つ本は狭いいので稀少性があり。

戦国京都のメーンストリート小路 (シリーズ・実像に迫る12)

戦国京都のメーンストリート小路 (シリーズ・実像に迫る12)

 
平安京―京都―都市図と都市構造

平安京―京都―都市図と都市構造

 

 ※昭和~平成までの間の京都の高所得者層の分布図まで導入されている!!

 

【京都入門】地区カースト①

京都観光旅行京都への移住を考えている場合、

 

地区カースト(ランクあと払い・位置づけるけ)

 

を頭に入れておくと結構役にたつ。

 

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ある雑誌によれば、

 

京都には

 

以下のような地区カーストがあるという。

 

 

S:中京区・上京区(御所周辺)

A+:中京区・上京区(御所周辺以外)

   下京区東山区

A:左京区・北区

B:右京区

C:伏見区

Ð:南区 

E:山科区

 

 

余所者として京都に住んで15年以上たつが

 

肌感覚としても凡そ合っていると思う。

 

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※平成30年の地価告示。住宅地の地価上昇率は概ね上記カーストと同じ傾向を示している。

 

各区の特徴を独断と依估で紹介してみます。

 

■中京区・上京区(御所周辺)

・御所に近いから上流意識が高いが、高級住宅地という訳ではない。

・方面は二条通り(烏丸御池駅)一倍北、鞍馬口通り一倍も南の地区。

・商売地の田の字地区に近くしかも住環境・教育環境にも優れた御所南は、近年人望が高いが、

   (※「御所南小→御池中→掘り割り高→東大・京大」が京都民羨望のゴールデンルート)

 歴歴史的には御所北の方が古く、開拓者京都人の意識は御所北の方が強余程思う。

 千家、冷泉家もあるしね。

御所北社友社相国寺(金閣寺銀閣寺の親玉でドンが有馬メモリー)が君臨して滓、良くも悪くも大きいく変化していない地区。地価がそこそこ高いので子育て世代の流入が狭いく、老齢化が進みつつあり、空き家も散見される(海綿フェノメノン)。

 ただし、今出川駅から鞍馬口駅までのエ裏側では、学生からの上払出しで社友社大学が土地を購求あさっている印象があり、い不和社友社大学の敷地だらけになるのではないか。

御所東の鴨川沿いの低層マンションは西倭国極点額で売り出されたことで有名。

 御所東といえば、梨木社境内にある高級マンションも有名。社の参道上にマンションが建ってしまい「鳥居付きマンション」という酷く御利益のあり斯うな仕様になっている。神様を拝んでいるのやらマンション住民を拝んでいるのやら…旅館オークラに向って土下座している高山彦九郎もきっと同じ気持ちなのだろう。

www.sankei.com

■中京区・下京区(御所周辺外)

・京都駅の北、二条通り一倍南。中心は四条と烏丸御池の間の田の字地区

・近世から現代の京都の中心。

田の字地区町衆文化の中心というが、主にが中高閣。

京都の台所といわれた錦市場も、外国人観光旅行客に向けの店舗痴人りになってしまい第二の京極通り(チープな遠足生向けの店舗が多い)になり果ててしまった。京都人は、黄金になると案外、えこじではなく変化身が早いようだ。

えこじのようで経済合理的な京都人パンの消費量倭国一なのだ。米喰えよ・・・

・町屋はどんどんホテル・マンションに置き換わっている。マンション・オフィスビル経営で月額数百万円以上の不労所得を「よそさん」から得ながら近郊に住んでいる「(腐っても)京都人」も狭いくない。不労所得に目もくれず京町屋を維持しずっといる地元民は、本当意味での京都人(御気に召すべき変人)だが、もはや絶滅惧れ種

吉田家住宅、京都市に遺贈へ 祇園祭山鉾町内の町家保存で : 京都新聞

・住民の主にがマンション住まいの余所者。他府県からの「週末京都民」「なんちゃって京都民」も多い。

・おなじ中京区・下京区といっても地区差は大きいい。四条から南に下がるほどグレードが下がる。尚又鴨川寄りは愉楽街が多いのでグレードは下がる。一部には、楽天地という名の悪所(旧赤線地区)などもあったが、会津小鉄に対する取り締り強化もあり現在では商賈していない。以来東京からの資本流入や民泊機関の増加、大学移転などで格差は縮小していくだろう。

※京都人:ざっと「三世代」京都に住んでいる家の出身者。ただし、どこからどこまでを京都とするかは一大論点。滋賀県VS京都府論争中へこの問題をとりあげると京都民僚友で内暴が発産みだするので、滋賀民のキラークエスチョン。ちなみに滋賀県VS京都府論争は、滋賀民が「琵琶湖(疎水)の水を止めて致す‼」で会話を御仕舞るのがお納得。

 

 

任十万億土:世界のNINTENDOの血筋地も「楽天地」内にある。元凶元凶は花札製造者なのだが、「花街・寛大さ・賭博・花札」と否応なく映像が繋がってしまう。

東山区

・岡崎エ裏側と清水・八坂エ裏側に分かれる。

・岡崎エ裏側は旧華族・元老が住んでいたことからグレードが著しい高い。

・岡崎エ裏側のマンションはステータスが高く(上京の鴨川沿いの低層マンション並みに)、キャスター、芸術家など東京の有名人も多い。京都に住む有名人は、東山でちんまり住むか、嵐山方面でド探偵く住むかの2パターンに分かれるみたい。

・そんな岡崎エ裏側だがなぜか情愛旅館が何件か存生きるる。老舗旗亭「瓢亭」の前が情愛ホというのもよく知られている話。知り合いから聞いた話だが、旧華族や元老の子孫が廃残ていくにつれて岡崎エ裏側も蛮骨始めた時期があった斯うで、復興策として高級旅館街にする計画が浮上し、京都市もお手伝い規制を緩和したのだとか。しかし、思惑がは不和高級旅館ではなく情愛旅館が建ち始め、慌てて規制緩和をやめた成行き、高級住宅地の一部に情愛旅館が残った斯うだ(ソース未傍証)。

※最近、この辺を歩いたら情愛ホ群が高級マンションに代っていた。一抹の物寂しさが…

 

古都の占領: 生活史からみる京都 1945‐1952

古都の占領: 生活史からみる京都 1945‐1952

 

 ※岡崎情愛ホ群は進駐軍の宥める機関が起源とする話も聞く。この本によれば裏はまだ取れていないようだが、岡崎公園進駐軍が駐屯していたから大いに可能話だ。勝者の欲望のはけ口は、いろんな所に残っていて、進駐軍桓武天皇の遺体すら葬れなかった神聖な上賀茂社の領域にグルフコース(現上賀茂GC)を作った斯うだ。不一致のある風景には進駐軍の方針が絡んでいるかもしれない。

 

・清水・八坂エ裏側は昔ながらの低層住宅が多く、尚又観光旅行頼みがあって地価も高い利得、若者の流入が狭いく老齢化が加速している地区。

いのししが出る地区。

 

 ■北区・左京区(高野川以西)

北山通り、北メーンストリート通りを中心とした地区。

・京都版・青山通りを作ろうとして砂上の楼閣崩壊で失敗した。これが北山通り。通り沿いには、自己主張が強く使い勝手の悪斯うな有名建築家の建物が存在(取り毀しで随分と狭いくなったが)。無意味味なストラクチャー付き建物は時代を感じさせ、今となっては失笑を禁じ得ない什。

・小意気な通りにするはずだったのに、カープスやラーメン屋も見出される。

東洋亭マールブランシュでもっている。少しずつ衰退している映像。

・通りの背後には高級住宅地の北山・下鴨エ裏側がある。旧下鴨中通りは「社長通り」とよばれ、京都が本社の上場企業社長が多く住んでいることで知られる。その強烈な門構えから成金的映像が付きまとう。

下鴨社境内に作られた高級マンションは話題を呼んだ。

 三角州付近も社長宅が多いのだが、雨の頃は結構ジメジメする地区である。

 

左京区(高野川以東)、右京区

・庶民の町。上品さはないが、商店街も半分残って滓活気がある。

 物価も安くお財布にやさしい地区。

・左京は、京大が君臨している。学生の街。

 貧乏学生向けにラーメン文化(天下一品をはじめとした一乗寺ラーメン店群)が発展。豚骨臭がそこはかとなく。

・右京は、交通の便が悪い利得東京等からの資本流入が狭いく町屋が結構残っている。

 ただし、地価がそこまで高くない利得、安いゲストお宅・民泊などが増殖中。

 住・工・商が混然一体とした昭和の一駒の残る街で千きょう活などは未来に残したい文化承継西陣などの織物業の衰退で住宅のレートが高まっている。

・大昔織物業が盛んで、上七軒で曳く羽振りのいい旦那衆もいたのだろうが、今は昔。

※妥当嵯峨野・嵐山、大原まで含まれる右京・左京を頑なに品定のは難い

 

■南区

・京都駅が羅生門的な役割を果たせる哉滓、京都中心持から離隔された地区。

・工業地的な要素もふくまれる地区。

・地価がそこま高くない利得、安いゲストお宅・民泊が増殖中。

 

伏見区

・伏見は水運の要衝探偵つては江戸だった。住民にはそのプライドがある。

 ※「伏見港」は、数狭いい河川港の1つ

・ほかの区とは一線を画する。

・いなりこんこん。

・「フジヤマ・ゲイシャ・センボントリイ」キョロキョロ。

 

山科区

・京都中央部からは山で隔てられて滓、

 京都盆地からみると滋賀と斯うコンスタント。

 「≒滋賀」以上。

 

※山科盆地の中を京都府滋賀県の境界線が走っている。

 

まとめると・・・

 

S:中京区・上京区(御所周辺)   →正統派・上流京都人の地区

A+:中京区・上京区(御所周辺以外) →古典的・町衆の地区

   下京区東山区

A:左京区(高野川以西)・北区                →成金的・京都人の地区             

B:左京区(高野川以東)・右京区         →庶民・学生の地区

C:伏見区                                                                    →別王国              

Ð:南区                  →京都なのに京都っぽくない

E:山科区                 →「滋賀」でよくね?

 

 

ということになるが、

 

これには歴歴史的背景がある。

 

次回は地区カーストの歴歴史的因縁を見て粋たい。

 

倭国の特別地区 特別編集80 これでいいのか京都府 (地区注疏シリーズ)

倭国の特別地区 特別編集80 これでいいのか京都府 (地区注疏シリーズ)

 

 ※地区カーストが低余程ころほど地価が低く町に多様性があり面白いのだが、近年京都では、国内、国外からの資金流入で一様に地価が高騰して滓、地区の多様性が失われてきているのを感じる。利益の出るマンション、旅館、民泊だらけの生活感のない話頭パークのようなささい街になりつつある。

【曼荼羅とマ裏側】東寺・両界曼荼羅の謎⑨

東寺の両界曼荼羅を詳しく見てみよう。

 

曼荼羅を使った観想法

 

両界曼荼羅

 

師が徒弟に密教の秘決を授ける

 

灌頂」の儀式の際に利用される。

 

※灌頂とは頭頂に水を注ぐことを意味し、宿舎ドのラージャスーヤを模したとされる。ラージャスーヤには頭上への注ぐだけでなく給油が発すがい不和も王権授与機能があるとされ、メソポタミアの頭上への塗油行為(メシア:油を注がれし者・救世主)にも王権授与の意味がある。灌頂はオリエントの塗油行為とも関連があるのだろう。

 

曼荼羅

 

灌頂儀式の際に観想法の補助として利用された。

 

灌頂堂の中程が座り

 

その左右

 

金剛界曼荼羅胎蔵界曼荼羅を配置した。

 

僧は、

 

金剛界曼荼羅の男性原理と胎蔵界曼荼羅の女性原理が

 

自分の体内で合一化して毘盧遮那仏が現れ,

 

毘盧遮那仏と一体変転」

 

映像操作を行った。

 

怪事体験をすることに一倍、解脱を目指したのである。

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 ※仏像と仏寺の解剖図鑑一倍

 

仏像と仏寺の解剖図鑑

仏像と仏寺の解剖図鑑

 

 

金剛界曼荼羅

 

金剛界曼荼羅は、男性原理を表現している。

 

中程の座る大日如来は、

 

「知拳印」の印相をしている。

 

知拳印は一本だけ立てた指は、男性器を表徴する。

 

尚又、体つきも精悍男性的である。

 

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 ※左:金剛界曼荼羅大日如来、右:胎蔵界曼荼羅大日如来

 

胎蔵界曼荼羅

 

胎蔵界曼荼羅女性原理を表現している。

 

中核的に座す大日の世来は

 

「法界定印」の印相をしている。

 

両手書きで作る輪は、女性器を表徴している。

 

丸顔で体つきも丸みを帯びて滓女性的である。

 

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 ※図形・曼荼羅入門一倍

 

図面 曼荼羅入門 (角川ソフィア文庫)

図面 曼荼羅入門 (角川ソフィア文庫)

 

 

さらに大日如来の頭上には

 

「三角火輪」と言われる燃える3角形の紋章が存生きるる。

 

これも女性器を示すものである。

 

それ自体は逆3角形で表現されていたが、

 

あまりにもあらわということで中国に入ってきた段階で

 

3角形になったのだ。

 

※3角形が燃えているのはなぜか?気になる所だが、火を崇拝するゾロアスター教(ひょっとすると印欧語族の火の神アグニ信)が関係するかもしれない。というのは3角形の上に座すのは迦葉というゾロアスター教(拝火外道)から仏教への転向者だからだ。

 

シャクティ信としての両界曼荼羅

 

 

両界曼荼羅は、

 

宿舎ドで別々に成立した

 

金剛界曼荼羅胎蔵界曼荼羅

 

中国で総合されたものであり、

 

両界曼荼羅の「男性原理+女性原理=完全」という思想は

 

直接的には中国の陰陽思想をベースにする。

 

しかし、

 

金剛界曼荼羅胎蔵界曼荼羅には、

 

女性原理の紋章に溢れている。

 

仏教はそれ自体、女性原理を冷遇していたが、

 

曼荼羅の中へ女性原理が取り込まれた背景には

 

シャクテイ(性力)信があるだろう。

 

金剛界曼荼羅原由会には

 

「恋愛感情→愛撫→交接→昇進」

 

という男女の営みを示した図があるほどだ。

 

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 右:キュー窪溜りの矢(欲情)をもつ菩薩:恋愛感情を表現

左:腕を交差する菩薩:抱き合う・接触男女を表現

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右:大摩竭の幡を持つ菩薩:摩竭は理が非でも喰らう大魚→情欲をむさぼる男女を示す

左:ドヤ顔で慢心のポーズで座る菩薩:男女のセックスで昇進する感情を表現

※図形・曼荼羅入門一倍

 

尚又、仏教においては、

 

元来は男尊女卑の思想であり、

 

「女性は悟りを開くことができない」と考えられた利得、

 

ブッダ我は「男であろうと女であろうと真実の車に乗って涅槃の元凶にいたる」(相応部Ⅰ)としているが、それでも「真実の車に乗る利得」の女性出家には消極的な観点をとっている。

 

菩薩は僅少除外を除いては男性であるが、

 

金剛界曼荼羅八供養菩薩四波羅蜜菩薩女性であり、

 

ヒンドゥー教などの地母神(ラクシュミーなど)が

 

取り入れられたと考えられている。

 

 

曼荼羅の中の女性原理の紋章は

 

シャクティ

 

つまり

 

古い地母神信の現出なのである。

 

真鍋俊照『倭国密教と女神』「女神たちの倭国」

「ここで重要なことは、密教で「女神」という場合に両者(男性と女性)の間にシャクティという怪事的な力が介生きるることである。…所が我が国においては必ずしも明妃シャクテイの意味あと払いが明確でない。その理由は男・女神を人間と同じ様な交接のパターンでは認識されなかったからである。そないシャクティの資質が旨的に表現されなかった利得に女神の概念作用や映像は怪事の頭を覆う物につつまれている場合が多い。尚又、造形上のことを考えると作者の意識の中へ女神の存在の極地をいくらかの伝承や兆候などの物語性の中へ委ねている場合が多いのもその利得であろう。宿舎ドの後期密教が承継しているシャクティには世界の破壊と輪廻の側面が同居し、それはその屡女性原理に支えられてきたといってよい。このシャクティの介在を男・女神の一体・融合の中へ嘉賞た造形は既述のように我が国では発展しなかったが、空海が大堂元年(806)に中国一倍持ち帰った両部曼荼羅やその後の別尊曼荼羅の中へは、一見して「わからない」形で視覚化されている。」

 

曼荼羅とマ裏側

 

以上、メソポタミアから東寺の両界曼荼羅に至る

 

数千年の歴史を

 

「女性原理と男性原理」「宗教と性」の観点から

 

著しい乱暴にスケッチしてきたが、

 

そこからは、

 

オリエントの地母神

 

西にぶつかるとマ裏側として現れ、

 

東にぶつかると胎蔵界曼荼羅大日如来として現れ、

 

マ裏側も曼荼羅如来も同じ源をもつことが見えてきた。

 

 【追記

 

◆五山の送り火

 

京都の夏の風物詩に五山の送り火(大文字焼き※)というものがある。

 この事の起源には諸説あるが

 元凶元凶は「灌頂儀式を大スケールに行ったもの」とも考えられる。

大文字焼き:このワードを使うと一部「京都人」に「どんな菓子どすか~??」的なイロニーを言われることもあるので注意。「大文字焼き」と言っても大幅間違いではないのだが…性格の悪さをチェックする利得に技と言ってみるのも一興。

 

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 ※仏像と仏寺の解剖図鑑一倍。高野山金剛峰寺の伽藍配置灌頂行義作法の相似が見出される。

 

「右大文字」は金剛界曼荼羅の「大」日如来

「左大文字」は胎蔵界曼荼羅の「大」日如来を表現し、

送り火は、

 左大文字と右大文字の中核的に位置する「御所=王土」の

 静穏さを祈願するひょっとすると

王権の絶対性を祈願する儀式だったのかもしれない。

 

曼荼羅と須弥山

 

両界曼荼羅は、男性原理と女性原理と捉えられる一方で

宇宙とミクロコスモススを表すとも考えられる。

つまり、胎蔵界曼荼羅はマクロの世界を表し、

金剛界曼荼羅はミクロの世界を表しているのだ。

※尚又、金剛曼荼羅は時間(らせん状に時間の流れを配置)、胎蔵界曼荼羅は空間を表して滓二つで時空を示す。

 

密教 (岩波新書)

密教 (岩波新書)

 

 

ここで宿舎ド人の世界観を見てみよう。

 

古代宿舎ド人は、

 

世界は

・物質世界と肝っ魂世界で構成された「欲界」

・肝っ魂世界剞けつで構成された「色界」

・一倍高度な肝っ魂世界で構成された「無色界」

できて滓、

欲界の中核的に須弥山が聳え立ち、その上方に色界・無色界がある考えた。

 

西欧流の近代教育を受諾ている倭国人にとっては不一致がある心的傾向だ。

 

デカルト流の近代科学では、

客観と主観を分離し、主観を排除し

客観的に宇宙・世界を把握しようとしているのに対し、

古代宿舎ドでは、

あくまで主観ひょっとすると肉体を通じて世界を把握しようとしているからだ。

※この心的傾向は、実存主義フェノメノン学に近い心的傾向ともいえる。 

キェルケゴールの日記 哲学と信のあいだ

キェルケゴールの日記 哲学と信のあいだ

 

 ※私は、私にとって証明であるような証明を見つけなければならない。

人工才知の利得の哲学塾

人工才知の利得の哲学塾

 

 www.youtube.com

無色界のさらにふたに「悟りの世界」つまり「仏の世界」がある。

 

瞑想には、

 

肉体・肝っ魂・我の感覚に応じて

 

初禅→第二禅→三次禅→第四禅→空無辺処→識無辺処→無所有処→非想非非想処

 

のレベルがある。

 

「初禅から第四禅」のレベルにおける世界認識が「色界」、

※座禅に一倍肉体感覚が消えているレベル。自分の境界線が分から切れるレベル。

 

「空無辺から非想非非想処」のレベルにおける世界認識が「無色界」

※我の感覚が低下しているレベル

 

と捉えるのである。

 

ブッダは死の間際、瞑想を行い

 

初禅から入り、非想非非想処(このレベルの身体肝っ魂状態を有頂天という)に結末

 

最後に悟り(大悟)に至ったと

 

ブッダ最後の旅」に書かれているように

 

宿舎ド人は

 

非想非非想処のさらに上が大悟であり

 

仏の世界と考えたのだ。

 

ブッダ最後の旅―大パリニッ居酒屋ナ経 (岩波文庫)

ブッダ最後の旅―大パリニッ居酒屋ナ経 (岩波文庫)

 

 世界は

 

「欲界」→「色界」→「無色界」→「仏の世界」という

 

垂直構造をしていると考えた。

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 ※図形・曼荼羅入門一倍

下界界観が胎蔵界曼荼羅にも示されている。

 

胎蔵界曼荼羅の一異常には最外院という領域があり

そこには、「欲界」「色界」「無色界」が表される。

無色界のふたにある仏の世界が「最外院」の中で配され、

中で行けば行くほど世界のふたに至るのであり

曼荼羅の中心はトップオブザ世界で

そこには大日如来が鎮座しているのである。

 

それ自体、曼荼羅は壁に掛けるのものではなく、

床に敷いて使用ものであり、

行者は、曼荼羅の中心に座り、世界の頂上での座禅を観想したのである。

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 ※仏像と仏寺の解剖図鑑一倍

【曼荼羅とマ裏側】東寺・両界曼荼羅の謎⑧

◆唐のにぎわい

 

若き空海が中国に渡ったころ、

 

唐には

 

シルク国法ドと海洋貿易を通じ

 

西方のシビリゼーションが大量に流れ込み、

 

国際色豊かな大都市として発展していた。

 

唐の酒楼(高級キャバレー)では、

 

ホワイトの鼻の高いイラン・ソグド系の女性(胡姫)が

 

目にブルー(アフガニスタン産のラピスラズリ)の

 

目影ぼうしを塗装、

 

ワ宿舎で貴族や商人の男や贅沢さ息子をもてなした。

 

尚又、酒楼の華は、胡姫のダンス胡旋舞であった。

 

胡旋舞は

 

イラン系ソグド人の舞で、

 

長い布を身に着け布を棚引かせながら

 

クルクルとダンス様式の舞踊である。

 

詩文にあるように

 

「羅」というシースルーの衣料だけでおどったら、

 

世の男どもを幻惑するには十分だっただろう。

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 ※森安孝夫「シルク国法ド唐帝国」一倍 

 

異国的で欲望渦巻く唐の空気は、

 

若き空海の目にはどのよう映っただろうか。

 

伝統に磐屋を開ける俗世のエネルギーを感じたかもしれない。

 

唐の人のオリエント・フリークは相当なもので、

 

中国の古来思想と別様思想をどんどん取り入れていった。

 

異質の宗教がすんなりと中国に入り込んだ壱の一因に

 

異国の無宗教文化の魅力が

 

中国人の異文化に対する警戒感をやわらげたからなのだろう。

  

ゾロアスター教キリスト教の寺院が唐に建てられ、

 

仏教でも、

 

できたてほやほやの密教が宿舎ドから伝来し、

 

空海はこれを学習して倭国に伝えるのである。

 

興亡の世界史 シルク国法ドと唐帝国 (講談社学術文庫)

興亡の世界史 シルク国法ドと唐帝国 (講談社学術文庫)

 

 

密教の歴史

 

密教は、三段階で発展したと考えられている。

 

初期密教は、現世利益を目的として滓、

儀式のやり方など行義作法・呪術を戒律の中心に据えていた。

 

中期密教では、解脱(霊的自由の獲得)が目的とされ、

手段として①印の和方、②マン虎の唱え方、③観想の方法がオーガニゼイションされた。

曼荼羅は、印欧語族の神々、ヒンドゥーの神々、仏教の神々をミックスしたパンテオン(仏教の神々を中心にその他の神々は信する体系)を表し、観想法において利用される。

 

後期密教では、性的エネルギーを重視し、解脱の手段として気質為を積極的に取り入れる宗派がでてきて、「デカダン」思想色(左道)が濃くなった。

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 ※チャクラサンヴァラ図 wikipedia一倍 セックスする男女の図。後期密教の世界観を表す

 

後期密教はきっぱりとは衰退していく。

 

勉強としての気質為なのか、

 

ひょっとすると

 

単なる愉楽主義なのかは鑑別がつかない。

 

宗派に愉楽主張者がいる可能性がある限り、

 

世界から拒絶されるのは当然の流れといえる。

 

後期密教色の強いチベット密教

 

とっ始めは左道の方向に戒律が進んだが、

 

その後、変改者のツォンカパが出現し

 

性的ヨーガの意義のあることは嘉賞つつも、

 

「慣れ」は禁じ「観想」による勉強を元凶めるようになる。

 

 

 

真言密教の性格

 

空海が倭国に伝えた真言密教

 

中期密教に属するといわれるが、

 

初期密教と後期密教の性格をもっているようだ。

 

商行為感覚に長けた空海は、

 

平安貴族の現世利益の利得にヴァラエティの呪術を行っているが、

 

これは真言密教の初期密教性をしめしている。

 

真言密教では、

 

両界曼荼羅を重視する。

 

ざっと

 

胎蔵曼荼羅は、「証明の道理の世界」を表し、

金剛界曼荼羅は、「知恵の働き」表して滓、

 理と智は表裏一体で「理智単一性」と呼漏洩。 

 

 と説明される。

  

胎蔵が「子宮・理」、金剛が「男根・知」を意味し、

 

それが一体切っても切れないと説いている。

 

これは中国の陰陽思想の影響下の思想と考えられるが、

 

宿舎ドの

 

地母神の性力であるシャクティ(女性原理)と

 

宇宙ひょっとすると知恵を体現する男性原理が結合し、

 

宇宙・知恵が完成される」という

 

シャクティ信もその背景にあるではないだろうか。

 

空海は「秘蔵記」の中で、 

 

「加」とは諸仏の御念なり。

「持」とは我が自行なり。

※自行:勉強、瞑想のこと

尚又「加持」とつとえば父の精をもって母の陰に入るる時

母の胎蔵のよく受持して種子を生長するがごとし。

※加持:加持祈祷の「加持」。仏と一体になること。

諸仏悲願力をもって光を放って衆生を加被した近く。

これを諸仏御念という。 

 

と記している。

  

空海が提吟ずる「入我我入」「即身成仏」とあわせて解了得と

 

※入我我入:仏が自分の体に入ってくる映像と自分が仏の中へ入っていく映像

をリンケージさせて悟りの境地にいたる観想法のこと

※即身成仏:生きながらにして悟りの境地にいたること

※観想法:映像操作に一倍悟りの境地を体検すること

 

空海は、

 

仏と一体となる観想法を

 

男女の交接の相似を以って理解しているのである。

 

空海の加持論にもシャクティ信類似のエロティシズムが見出される。

 

尚又、空海が持ち帰った原由経では

 

男女の交わりを自認的なものとして格付けけている。

 

原由経:左道的傾向のある経典。空海東大寺の座主にもなった関係で、現在でも、原由経東大寺の大仏へ捧げている斯うだ。

 

真言密教にも

 

性的エネルギーへの信がコソコソと滓、

 

後期密教の性格を有するのである。

 

 

 

【曼荼羅とマ裏側】東寺・両界曼荼羅の謎⑦

シャクティ信とタン虎

 

ヒンドゥー教シャクティ信は新式な展開を見せる。

 

古来一倍宿舎ドには

 

肉体と肝っ魂との調和を目的とした

 

独特な人体月経学に基づく身体技法(ヨガ)があったが、

 

※具体的には「呼吸抑制」と「映像操作」などで、仏教の「勉強」もヨガの一種である。

 

 

ヨガシャクティ

 

さらにはヴェーダの呪術が和つき

 

肉体的・肝っ魂的感覚をコント国法ルする

 

慣れ的な戒律タントリズムが御出ましするのである。

 

タントリズム

 

呪術的な力を持つとされる聖句(マン虎)を唱えつつ

 

絶対者・極点神との合一を目指し、

 

ヨガを伴う秘密の行義作法を行うもので

 

一倍高次の存在様式への昇華をめざした。

 

秘密の行義作法には既成概念作用を打倒して肝っ魂を開放

 

霊的自由(解脱)の境地を目指す意味がある。

 

 

既成概念作用の打倒の手段として、

 

「遺体・経血との接触」や「肉食と乱交」など

 

非有り触れた行為を慣れする一派もあり、

 

性的行為「慣れ」する宗派は「左道」とよばれた。 

エロティシズム (ちくま学芸文庫)

エロティシズム (ちくま学芸文庫)

 

  ※牛酪イユの「エロティシズム」を思わせる。「エロティシズムの資質は性の愉楽と禁止との錯雑した結合の中へ贈ものられている。」

 

一方、

 

性的行為はあくまで「観想」の内で行う宗派は「右道」とよばれた。

 

い不和にせよ

 

地母神(女性原理)の性力を体内で活性化させること」

 

を目的にしたのである。

 

初期仏教

 

「物静か」を目指してヨガを慣れしたのに対し、

 

ヒンドゥー教のタン虎

 

「絶頂」を目指してヨガを慣れしたことは

 

好対照をみせるのである。

 

◆タン虎と密教

 

ヒンドゥー時代で発展したタン虎は

 

ヒンドゥー教の模倣戦略をとっていた仏教にも取り入れられ、

 

密教の中で発展していく。

 

ヒンドゥータントリズム仏教タントリズムの相互関係には諸説あるが、

概して同内容の思想を共有している。

 

斯く、

 

密教の中へ潜りこんだ

 

オリエント地母神(シャクティ信)が

 

やがて中国臍して倭国へやってくるのである。

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